Love,Laugh and PEACE! from Hiroshima
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きょうちゃん(結葵)
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フツーって
若い頃、私はなーんにも考えていないおバカな女の子だった、と思う。
なんでかっていうと、フツーに結婚して、子供をふたりくらい(上は女の子、下は男の子)を産んで育てて、週末は旦那さんに家族サービスしてもらって、今ぐらいの歳には、マイホームで優雅にフツーの奥様をやっている・・・そんな人生が当たり前のように自分にもやってくる、と根拠もなく思っていたからだ。
この話をすると、娘はすかさずこう言う。「おかーさんにはそんなの絶対向いてない、絶対ムリ!笑」ってね。で、ご存知の通り、私の人生は、ぜーんぜんそんなふうにはいかなかった。

 
まず、結婚生活が続いていない(バツイチである)。子供はひとり(女のみ)。週末は、家でのんびり…否、疲れてぐーたらしてるか、最近は馬に乗りに出かけてるか、ちょっと前まではコーチング関係のイベント主催とかでドタバタしてるか、そんなところ。旦那さんはいないから、自分が家族サービスする側で、車の運転も全部自分でする。この歳になっても、マイホームは持っておらず、未だに実家で借り暮らし。光熱費使い過ぎ!って母に文句言われながら。優雅な奥様なんて、私には一生なれそうもない。・・・と、これが現実の私の人生なのである。

 
「こんなはずじゃあなかったのよ」と娘に冗談言って、いつもふたりで笑うのだけど、あの頃なんであんなふうに疑問も持たずにそんなこと思っていたのか、今では???である。フツーってなんだよ?である。

 
10代の頃、海外(特にヨーロッパ)に憧れ、世界一周旅行とかしてみたい!と夢見ていた。でもそれは本当にただ見ているだけの、ただ憧れているだけの夢だった。決断力も、決行するだけの勇気も、実現するための努力も、何もかも中途半端。世間知らずの箱入り娘、あまちゃんだったのだと思う。

 
それが離婚を機に、27歳でポーンと外の世界に放り出された。3歳の娘を抱えて、親子二人どうにかして食ってかなきゃいけなくなって、いろんなこと全部自分で考えて、自分が決めて、その責任も全部自分が背負うってことを、やらざるを得なくなった。そういうことをしたかったのか?というと、決して望んでした離婚ではなかったし、全然したかったわけではなかった。でも、やらざるを得なくなってしまった。

 
しんどかった。長いこと、ずっとしんどかった。自分のそういう人生の巡り合わせを受け入れることが全然できなかった。その頃は無意識だったのだろうけど、自分のそういう人生を認めたくなかったのかもしれない。なんで私がこんな目に合わなきゃいけないの?っていう被害妄想てんこ盛りの自分しかいなかった。めちゃくちゃひねくれてた。ひん曲がってた。自分は悪くないって思いたいから、周囲は全部敵だった。いつも何かに怒ってた。何もかもに腹が立って噛みついてた。・・・そして、ものすごく寂しかった。孤独だった。独りぼっち(娘はいたけど、そう思っていた)がとんでもなく辛くて悲しくて、夜、娘が寝た後、ひとりで泣いてた。私の気持ちなんて誰にもわかるはずがない、と。

 
20代の後半、私にはあまり楽しい思い出がない。本来なら、いちばん楽しいはずの時期だろうに。子育ても、その頃の私にとっては重い責任に感じることだったから、楽しむことがほとんど出来なかった。娘にとっては全然いい親ではなかっただろう。

 
まったくもって、私がおこちゃまだった頃、疑問もなく思ってたフツーとななんぞや?である。
| 私の物語 | 00:54 | comments(0) |
記憶、戻る

記憶喪失。ドラマでしか見たことないようなそんな事態が身近な人、一番大切に思っている人に起こるなんて、私にとっては思ってもみないショックな出来事だった。当然、私だけでなく夫の家族や私の家族にとってもそうであったと思う。


以前に台風の強風で飛んできた看板が頭にあたり、一時的に同じような記憶喪失の状態になったことがあるという人が、たまたま母の知人にいることがわかり、母はその人に話を聞いたらしく、こんなことを教えてくれていた。
記憶が戻る時には、一時的に記憶を失ってから戻るまでの間のことを忘れてしまう、と。その人は実際、そういう状態になったそうだが、数日して全て思い出した、というのだ。


もしそれが本当なら、そうなった場合には夫は水戸から浦和に引っ越してきたことを忘れてしまうだろうし、浦和の新しい家の場所もわからなくなるのだろう。記憶が戻る瞬間、それがいつ何をしている時に起こるかは誰にもわからない。家に居る時なら何の心配もないが、職場復帰した今、それは会社で起こるかもしれないし、通勤途中に起こるかもしれない。
何度も言うが、携帯電話のない時代である。もし、夫が一人で外出中にその記憶が戻る瞬間が訪れた時に、私と連絡が取れるようにと、新しい住所と電話番号を記したメモを、夫の財布の中に入れておくことにした。どうかこのメモに気づいてくれますようにと、祈る気持ちだった。


そしてその日がついに来た。夫に記憶が戻る瞬間が訪れたのは、日曜日に千葉の工場に仕事で出かけて行った日の帰りの電車の中だった。


夫は、千葉から帰る電車の中で、少し眠ってしまったのだそうだ。
ふと気づくと、今まで乗ったことのない電車に乗っている。窓から見える外の景色も全然見たことがない。なぜ自分がこんな電車に乗り、どこへ行こうとしているのか、なぜ全然知らない場所にいるのか、まったくわからなかったらしい。
取るものとりあえず、夫は電車を降りた。降りた駅も見覚えがない。それでなんとなく財布の中を探ったのだそうだ。そして、私が書いたメモを見つけてくれた。そしてそこに書かれている電話番号に、電話をかけてきてくれたのだった。


電話が鳴った瞬間、私は直感していた。これは来るべき時が来たのだと。
受話器を取ると、電話の向こうから困惑している夫の声が聞こえてきた。
「ねえ、俺、今○○駅っていう全然知らない駅にいるんだけど、ここってどこなの?なんで俺、こんなところにいるの?」


電話に出た私も慌てていた。何からどう説明したのか、覚えていない。無我夢中で、まずは家に帰る方法を説明し、最寄りの駅に着いたらまた電話をかけてもらうように頼み、一旦電話を切った。そして次に電話がかかってきたら駅まで迎えに行けるように、準備をして、再び電話が鳴るのを待った。


何分くらい待っただろうか、全然覚えていない。夫から最寄りの駅に着いたと連絡があり、私は娘を抱っこひもで体にくくりつけ、コートを羽織って駅に向かった。気持ちばかりがはやり、はやく歩こうとするのだが、六ヶ月になっていた娘を抱っこしているので、前のめりになってこけてしまいそうになる。「落ちつけ落ちつけ、気をつけて行かなきゃ」と娘の顔を見ながら自分に言い聞かせる。駅までの数分の距離が、あんなに長く感じたことはなかった。


駅で私と娘を見つけた時の夫は、娘の名前を呼んでこう言った。
「なんでこんなに大きくなってんの???」
夫はまるで目が点状態だった。そりゃあそうだ、事故して記憶喪失になった時、娘は二ヶ月足らず、ちっちゃな赤ん坊だったのだ。今はまるまるとして(!)、私が重そうに抱っこしているのだから。


私は私で、嬉しいのと驚いたのとで興奮して、そして夫に事の顛末を話さなきゃ、と家までの短い距離の間も矢継ぎ早に説明しようとしていた。家に帰ってからも、夫の実家に連絡を入れたり、夫にこれまでのことを話したり、とばたばたしていたのを覚えている。
もしかしたら、意外にあの時は夫の方が落ちついていたのかもしれない。自分に何が起こっているのか、すぐには受け止めかねていたが、わりと淡々とした様子だったような気もする。


あの頃、私は夫のことばかり心配して生活していたつもりだったが、本当に夫の気持ちをわかっていたのだろうか。
夫がどんな気持ちで記憶喪失ということを受け止めていたのか、わかっているつもりでいただけだったのではないか。
ずいぶん時間が経ってから、そう、離婚した後になってから、私は初めてそんなふうに思うようになった。
今から思えば、あの頃の私は、実は自分のことで精一杯だっただけなのかもしれない。でも、その時にはそんなことは思いもしなかった。いつでも、優先順位は娘、夫、最後が自分だ、と思っていたのだ。




| 私の物語 | 01:28 | comments(2) |
記憶喪失

数日経っても、夫の様子は変わらなかった。
私のことは結婚前の友達だった頃の私という認識で、私がいつも連れてくる赤ちゃんが、二ヶ月前に生まれたばかりの自分の娘だとはわからない。
自分が社会人になったことも、私と結婚したことも、娘が生まれたことも、忘れていた。自分の仕事のこともわからなくなっており、仕事中に自分が事故を起こしたことさえ、覚えていなかった。
夫は、自分は大学生で、福岡に住んでいる、と認識していた。


医師には「逆行性健忘症」と診断された。いわゆる記憶喪失である。
記憶は戻るかどうかも、いつ戻るかもわからない、と言われた。
CT検査では異常はなかったが、念のためMRI検査もした方がいいとのことで、大きい総合病院への転院を勧められた。


転院してからは家から遠くなり、毎日病院へ通うのはなかなか大変だった。その頃は、義母や義姉、自分の母などが、入れ替わり立ち替わり水戸まで来てくれて、しばらくの間泊って娘の面倒や家事を手伝ってくれた。


検査では異常はなく、間もなく退院となったが、なにしろ仕事のことを覚えていないのだから、すぐには職場復帰が出来ない。仕事中の事故だったので、会社側は労災で対応してくれて、しばらくは自宅療養ということになった。


退院してからは、ふたりで行ったことのある場所に行ってみたり、友達に訪ねてきてもらったり、記憶を取り戻すために出来ることはないかと手探りの毎日だった。
福岡の夫の実家に帰り、九州大学の大学病院で検査や診察を受けてみたりもしたが、これといって原因がわかるわけでもなく、記憶も一向に戻る気配がなかった。


この頃私は、突然鼻血が出たり、じんましんが出たり、風邪をひいても咳が長引いてなかなか治らなかったり、体調のすぐれないことが多かった。
記憶はいつ戻るかもわからない、夫の仕事はどうなるかもわからない、先の見えない不安。
娘が生まれてから気づかぬうちに毎日の生活の中で夫に負担をかけていて、そのせいで夫は疲れていたから事故を起こしたのではないか、だとしたら自分のせいだ、という自分を責めるような気持ち。
初めての子育てにも、いろいろ不安があったし、慣れないことばかりで心身共に疲れがたまっていたのだろうと思う。


事故から三ヶ月が経ち、記憶は戻らないものの体は元気だった夫に、会社から東京への転勤の辞令がおりた。新しい部署で新しい仕事を一から覚えてもらうという形で、仕事に復帰するように、ということだった。


12月に入っており、慌ただしく引越しの準備が始まった。夫が引越し先を決めるために、ひとりで東京へ行って部屋を探したり、引越し屋さんを手配したり、荷物を整理したり。
引っ越しする日は確かクリスマス頃だったように思う。朝から引っ越し作業に追われ、車で埼玉の浦和に向けて出発したのは夕方近かった気がする。
徐々に暗くなっていく中、私は不安と希望の入り混じった気持ちで、車に乗っていた。
水戸をこんな形で去るとは、思ってもみなかった。短い間だったが、新婚の楽しかった思い出も多い。いつかこの町を再び訪れることはあるのだろうか。。。


浦和に着く頃は夜も遅くなっており、引っ越し屋のトラックが荷物を運び入れるのは翌日になっていたので、その日は駅前のホテルに泊まることになっていた。
ホテルに泊まった夜、思いがけず思い出が出来る。娘がホテルのベッドの上で、ころりと初めて寝返りを打ったのだ。
体が大きめだった娘は、重くてなかなか寝返りが打てなかったようで、普通だったらとっくに寝返りが出来ているような月齢になっていた。嬉しい成長の証だった。
今思えば、あの重苦しい日々の中での喜びの思い出で、とても懐かしい。


年末は荷物整理に追われ、あっという間に1993年が明けた。夫は仕事始めからの職場復帰。浦和から新宿へ埼京線で通勤する、という毎日が始まった。私も新しい土地での新しい生活がスタートした。


職場復帰から約三週間が経った頃、夫が日曜日に千葉の工場での仕事が入ったと言う。
朝から電車に乗って出かけた夫だったが、帰ると言っていた時間になっても、帰ってこなかった。
当時は携帯電話もない時代。心配になり、部屋の窓から見える埼京線の高架を電車が通るたびに、この電車に乗ってるに違いないと期待しながら待ったが、やはり夫は帰ってこない。
本気で心配になり始め、隣の市に住んでいると聞いている夫の新しい直属の上司の自宅に電話をしてみようか、と思い始めた時、電話が鳴ったのだった。




| 私の物語 | 10:29 | comments(0) |
夫の交通事故

20年前、娘が生まれて2ヶ月が経とうとしていた頃、忘れもしない8月31日のことだった。


その頃の私は専業主婦。この日は天気が良く、空は青く晴れ渡っていて、朝から気分良く家事をこなしていた。午前中に近所のスーパーに買い物に出かけたりして、今日は仕事がはかどるなぁと自己満足していたくらい。


昼食を食べた後、リビングで寛いでいた時・・・娘はその時眠っていた・・・、ふいに玄関のチャイムが鳴った。出てみると、当時の夫の会社の先輩が立っている。年もわりと近い関西出身の気さくな方で、結婚式にも来てくださったので顔も知っていたし、夫の話にもよく出てくる人だった。


「落ちついて、驚かないで聞いてね。○○君が事故って病院に運ばれたんよ。今から一緒に病院へ行こう。僕が車で連れていくから。」


何事が起こったのか、状況もつかめないまま、取るものもとりあえず、娘をベビーキャリーに入れ、先輩の車に乗せてもらって病院へ向かった。
彼は病院へ向かう車の中で、簡単に事故の説明をしてくれた。ひとり相撲の交通事故で、車は廃車になるみたいだけど、本人は大した外傷はないようだ、と。
言葉少なく心配そうな顔をしていただろう私に、彼はしきりに「とにかく落ちついて、大丈夫大丈夫。」と言ってくださっていたことを覚えている。


病院はたまたま自宅から数分のところにあり、救急車でここに運ばれたということだった。
病室に入ってみると、夫は眠っていた。
医師に呼ばれ、話を聞きに行くと、軽いむちうちくらいで、特に外傷はないが、頭を打っているかもしれないから、念のためCT検査をしましょう、そのための入院くらいで済むかもしれないが、とりあえず検査をしてみないとなんとも言えない」とのこと。
病室に戻ってみたが、夫はまだ眠っていたので、とりあえず入院のために必要なものを家に取りに帰ることにし、また先輩の車に乗せてもらって、一旦家に戻った。


家に戻る車の中で、私は無意識にバッグの留め金をカチカチと留めたり外したりしていて、また先輩に「落ちついて、大丈夫だから」と声を掛けられた。
家でバタバタと思いつくものをカバンに詰め、今度は自分の車を運転して再び病院に戻った。
もちろんベビーキャリーに入れた娘も一緒に。乳児の娘を病院に連れて入るのは、看護師さんには止められたが、他に預けられる人もいないのだから仕方がなかった。


戻った時、夫は目を覚ましていた。そして、私の顔を見て不思議そうにこう言った。
「西田??なんで西田がここにいるの?」と。
赤ちゃんの娘を見ても、ただただ不思議そうな顔をするばかり。誰の子?と言わんばかりに。


最初は私も目の前で起こっている状況が飲みこめなかった。
どういうことなんだろう?
なんで私のことを旧姓の呼び捨てで呼ぶんだろう?まるで私たちが出会ったばかりの頃のように。
それに、なんで自分の娘を見ても、知らない子供を見るようにしているんだろう?
何が起こっているの???


医師にこのことを伝えに行くと、事故の直後は記憶が錯綜することがあるんです、少し時間が経てばもとに戻るでしょう、と言われたので、そうだよね、大丈夫だよね、と自分に言い聞かせ、とりあえず今日は家に戻るね、明日また来るね、と病院を後にした。


家に戻った頃はすでに夕方になっており、慌てて洗濯物を取り入れる。ひとり洗濯物を抱えながら、ふと気が抜けて、涙が溢れてきた。
「しっかりしろ、私には赤ちゃんもいるんだ、大丈夫、なんとかなる」と、自分で自分に言い聞かせようとしたが、そう思おうとすればするほど、涙が出てきて止まらなかった。


その日の夜、福岡の夫の実家に電話をし、事故のことや夫の様子を伝えると、義父が明日一番でこちらに来ると言う。心配だし、恭子さんも赤ん坊がいるから大変だろうし、男手ではあまり役には立たないだろうけど、病院に行ったりは出来るから、と。


心を落ちつけるために、広島の自分の実家にも電話をしたのを覚えているが、その日の夜は、疲れているのに目が冴えて、なかなか眠れなかった。朝、いつも通りに仕事に送り出した時の夫の笑顔も思い出されてならない。
私を旧姓で呼んだ夫。自分の娘だとわからない夫。
いったいどうなってるんだろう?これからどうなるんだろう?
突然の出来事によるショックと、先の見えない不安が押し寄せていた。




| 私の物語 | 00:51 | comments(0) |
仕事探しと必然

ドラマ「シングルマザーズ」の主人公と同じに、私も離婚後に簿記の勉強をして資格を取った。
気持ちが滅入るばかりだったその頃、簿記の勉強をするために学校へ通い、一生懸命授業を受けたり、家で宿題をしたりする時間だけが、受け容れがたい現実を忘れていられる時間だった。


しかし、簿記の資格は取ったものの、不況の真っただ中で、資格を活かせるような働き口などすぐには見つかるはずもなく、保育園に通う娘のいる私を、正社員で雇ってくれるような会社はなかった。
小さな旅行代理店で事務のパートをしたり、コンビニ店員をしたり、パート職を転々としていた。
そんな折、父が病に倒れ、短い入院の末に亡くなったため、実家の自転車屋を手伝ったりもした。自転車の組み立て、パンク修理やタイヤ交換なども母から教えてもらい覚えた。


そんなある日、知人から今度パン屋を始める人がいてパートの店員を探している、という話をもらう。毎日働けるところを探していたので、さっそく面接を受け、運よく採用していただけた。それまでしたパートの中では時給もよく、一緒に働く人たちにも恵まれ、学んだことも多かったように思う。
しかし、パン屋の仕事は一日中立ちっぱなしで、座れるのは昼食の短い休憩の間のみ、お客さんも多いお店だったので一日中忙しく、仕事が終わる夕方には足がパンパンで、ぐったりと疲れていた。


さすがにこれをずっと続けるのはしんどい。簿記の資格を活かせる仕事で、正社員で雇っていただけるところを探したいが、この不況の中では見つかるかどうかもわからない。でも、そろそろどうにかした方がいいのではないか。
そんなことを考え始めていた頃、パンを切るスライサーで指を怪我してしまう。幸い、怪我は大事には至らなかったが、しばらく休みをもらうことになった。
その時、こんな中途半端な気持ちで仕事をしていたらよくない、だから怪我をしたのかもしれない、これを機に思いきってパン屋の仕事は辞めて、新しい仕事を探してみよう、と決心がついた。


そして何の見通しもないまま、パン屋を辞め、仕事探しが始まった。
ハローワークへ行き、新聞の求人欄に隅から隅まで目を通し、求人誌をめくる毎日。
不安といえば不安だったが、今度こそ長く働ける仕事に就くんだ、という気持ちの方が強かった気がする。
そんな時、母が新聞の求人欄に載っていた今の会社を見つけた。「経理事務、正社員」と書かれていた。さっそく電話をかけ、面接の日にちが決まった。


面接の日、その会社の前に立った時、そして面接を終えてその会社を出て、曲がり角でその会社の建物を振り返った時、不思議だが「私はここで働くことになる」と思った。
根拠などないただの直感だったが、数日後、採用の電話をいただくことになる。


パン屋の仕事はとてもきつかったが、その頃私は初めてオーラソーマというカラーセラピーに偶然出会っている。同時に、アロマセラピーにも出会った。その出会いは、今の私につながるもの、コーチングにつながっていくものになった。
今、こうして思い返してみると、私は自分に必要なものにひとつずつ出会っていて、それは当時は偶然の出会いに見えたが、必然であったことがわかる。


きっと誰の人生もそうなのだろう。その人にとって最も必要なものがちゃんと訪れるようになっているのだ。だから人はもっと自分の人生を信じたらいいのだ。たとえ今、どんな苦しい逆境の中にいても。


でも、一方で私は、無理してそう思う必要もないとも思っている。本当に苦しい時には、希望を失ってどうにもならないところに陥ってしまうのが人間だと思うから。生きているから、生きていこうとしているから苦しいのだと思う。自分の人生を本当は信じたいから苦しいのだと思う。私はそんな人に寄り添い、ともにいたいと願う。

| 私の物語 | 11:26 | comments(0) |
シングルマザー
先週までNHKで「シングルマザーズ」というドラマをやっていた。
主人公は、夫のDVから逃げ出し、ゼロから生活を立て直して自立し、男の子一人を育てていく。
劇中ではさまざまな事情からシングルマザーとなった女性たちが、お互いに助け合いながら、子供を育て懸命に生きていく。
また、そういう母を見て育っていく子供たちの気持ちも描写されていた。
同時にシングルマザーをとりまく社会環境や社会情勢も描かれ、母子家庭に関わる社会の制度についても説明が入っていた。


私はこの頃はテレビドラマというものが本当につまらなく感じて、めったに続けて見ることがないのだが、なぜか娘が第1回目を録画していて、まあどんなもんだか試しに見てみるか、という気持ちでそれを見てみたら、主人公が夫のDVから逃げ出して知らない町で家を探すシーンで、昔の自分を思い出し、なんだか引き込まれてしまって、毎週録画をセットしたのだった。


私は、このドラマを見ていて、何度も自分自身の経験とその時に感じた気持ちを思い出した。
それらの記憶は、今となっては良い経験だったと言えるものではあるが、やはり辛かったり苦しかったりしたことだ。
離婚したての頃、何度も味わった社会の厳しさや冷たさ、風当たりの強さは、これから一人で娘を育てながら生きていこうとしている私には、大きな不安と心細さをより一層強くするものでしかなかった。自分が無力であることを突きつけられているようだった。
夜、娘が寝静まった後、一人で何度泣いたことか。あの気持ちは経験した人にしかわからないと思う。


あの頃、私は若くて、何も知らなくて、とんがってて、弱くて、娘を抱きしめて踏ん張って立っているだけで精一杯だった。
離婚に至るまでの結婚生活で経験した、大切にしていた、信じていた人との関係が壊れていく過程と、離婚によってせざるを得なかったその人との別れは、私の心を頑なにしていた。
心に鎧をつけ、自分と娘を守るためには戦うしかないと攻撃的だった。周りは全部敵に思えた。
とてつもなくさみしかった。ひとりぼっち、ひとりきりだ、と思っていた。
生きることは私にとって辛いこと、苦しいこと、重いことだったから、はやく死にたいと思っていた。
自分の人生に希望を持つことが難しかった。
ただ、娘を一人にしたくない、という気持ちだけで踏ん張っていただけのような気がする。


そんな私にコーチングとの出会いが訪れた。
2001年、ある雑誌に「コーチ」という仕事が、女性の仕事として取り上げられていたのを目にしたのが最初だった。

| 私の物語 | 21:11 | comments(0) |
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